久しぶりに、心から「文章を書きたい」という気持ちになる本に出会った。
読み終えたとき、下手でもいい、自分が感じたそのままを言葉にしたいと思った。
著者の島田潤一郎さんは、夏葉社という出版社をひとりで立ち上げた方なのだが、不思議と共通点が多い。同じ1976年に生まれて、島田さんは「谷崎潤一郎」から「潤一郎」となり、僕は「ビクトル・ユーゴー」から「祐剛」になった。中高生のころ、横山光輝の「三国志」とちばあきおの「キャプテン」を読みふけっていたのも同じだし、大学に入ると、島田さんは公認会計士の勉強をし、僕は司法試験の勉強をした。試験に受からなかったことも、リア充とはほど遠い微妙な20代を過ごしたところも同じだった。
とても生きにくい世の中だと思う。
どうしてそうなったかのかわからないが、ずっと、生きにくいなあ、と思っている。
特にぼくのように若いころにちゃんと働いてこなかった人間にとって、
社会は全然やさしくない。
『反省しました。もう馬鹿なことはやりません』と謝っても、許してはくれない。
あなたが好きでやってきたんでしょ? 責任とりなさいよ。
ずっとそう言われ続ける。
すくなくとも、そういわれ続けている気がする。」
ここに共感しちゃいかんと思いつつも、つい、自分もそう思った時期があった、というか今でもそう思っていることに気づかされる。
そして、島田さんが本屋さんに行くときに感じていたこと。まったく同じことを僕も感じていた。
子どものころから、なにか困ったとき、つらいときは、本屋さんへ行った。
本屋さんの店内に入ると、気持ちが落ち着いた。
たくさんのお客さんにまじって本や雑誌に触れていることで、
かろうじて社会と繋がっているような気もした。
そうした日々をしばらく送った。
僕が中学生のころ、相鉄線の天王町駅から、横浜のアメ横と呼ばれている松原商店街に向かう道の途中に、やよい書房という小さな本屋さんがあった。通っていた学習塾の帰りに、「スラムダンク」、「ドラゴンボール」、「らんま1/2」などの新刊が出るたびに立ち寄っていた。近くには、もっと大きくて綺麗な本屋さんもあったのだけど、やよい書房の無口な店主が醸し出す薄暗い雰囲気とインクの匂いがたまらなく好きだった。
一度だけ、無口な店主と会話をしたことがある。コミックの代金を100円多く払って店を出ようとしたとき、「1枚多いぞ」と言って、100円玉を返してくれた。僕は、「おじさん、正直に教えてくれてありがとう」と、よくわからないお礼を言って店を出た。
やがて、大学に入って学習塾に通わなくなると、やよい書房の存在も次第に忘れていった。
大学を卒業してからしばらくして、ふと思い立って、やよい書房に行ってみた。松原商店街は相変わらずの賑わいだった。しかし、やよい書房があったはずの場所には、あの薄暗い雰囲気もインクの匂いもなく、無口なおじさんの代わりに若いお姉さんが座っていた。蛍光灯で明るく照らされたお店の中には、保険代理店のキャラクターとして知られる大きなアヒルのぬいぐるみが置かれていた。
「あしたから出版社」という本を読んで、なぜか、こんな記憶がよみがえった。
そうか、僕は”本”ではなく”本屋さん”が好きだったんだ。大学は文学部に進んだので、周りの文学青年に合わせて、ドフトエフスキーとかプルーストとかに手を出した。でも、読んでいる時間より、背表紙を眺めている時間の方が楽しかった。僕にとって、文芸書は本棚に並べるインテリアだった。
なんだかんだ、生きていると、どこかで背伸びをしようとしてしまう。本当の自分より、ちょっとだけ良く見せようとしてしまう。等身大の自分を語れる人や自分の過去を笑い話にできる人って、きっと今が充実している人なのだと思う。
仕事をするようになってから、少しでも背を伸ばそうとして、ビジネス書ばっかり読んでいたような気がする。肩の力を抜いてエッセイや小説を読む時間も大切にしたい。